親父が亡くなった
これを書き記すべきかどうか、親父が8月29日の午前11時56分に亡くなる知らせを聞いてから、親父の痩せ細った姿や顔をみて、そして兄と『家族』に対して話すキッカケが重なるにつれて書こうという考えに至りました。会社に休みを頂き、この2日間、正直考えることが多く悶々としていました。私の父親は頑固な昭和19年生まれの82歳で、音信不通になり、早いもので20年以上経ちました。直近の約3年は脳梗塞になり入院中に1度会いに行きましたが、脳の後遺症で会話のキャッチボールは出来ず。ただ、息子の名前は?と尋ねるとゆたか、とおるとだけ言います。職業は?と聞くと、床屋って答える。脳が機能していなくても名前や職業はスラスラ出てきました。その父親の件で病院の看護師さんからの危篤の第一報の電話があり、その10分後に容態が急変し、電話で先生より死亡確認を受け心不全で亡くなりました。
兄と話していて、知らないことが多々ありました。私は小さかったので、ほぼ記憶にない状況でも、兄は当時10歳なのでとてもよく覚えてるようでした。父が40歳の時に私が生まれ、とても可愛がられてたそうです。女の子に生まれて欲しかった母親の願いもあったようで、赤い洋服ばかり着させられていた写真も見た事があります。ただ時は経ち、私が19歳か20歳の年に両親が離婚。正直、私は父親が嫌いでした。なんでおかんと寄り添わないの?って常に思ってました。そして今思えば幼少期はめちゃくちゃ貧乏。兄が10歳年上のため、家に32インチ程のブラウン管のテレビを、東京で独り暮らしでお金を貯めて、我が家に買ってくれた事。当時は、テレビにボタン式のチャンネルがついてるような茶色の古臭いテレビ。それが真っ黒なデカくてキレイなテレビに変わった。テレビ台がボロ過ぎてバランス悪い見た目でしたが、めちゃくちゃ嬉しかったこと覚えていますし、家族に陽が灯る感覚があったことを昨日のように覚えています。
ただ、当の家計の状況は火の車。父親の度重なる引っ越しと気変わりで、三鷹の床屋も閉店。三鷹、練馬、北区、市川、柏と最低5回は引っ越したと兄から聞きました。引っ越しの度に、友達を作ることが嫌だった兄は、両親に反対したそうです。その返事は場所を移動すれば、成功するかもしれないと望んでた親父。ただ、母親はそれをカバーするように家の床屋の仕事にプラスで、昼間は保険会社、夜はスナックなどの仕事をかけ持ち。何回も夜中に帰ってくる母親を道端て見ました。両親2人とも床屋で、その引っ越しの都度自営でした。ただ、私はその親を見てたからか、そうなりたくないという自分気持ちが強かった。幸せな家族がほしいと。
両親の離婚後に通信で美容師学校に通わせてもらうと同時期に、柏から北区の叔父の所有しているアパートを借り独り暮らし。その後、母親も24歳の時に癌で、病院に寝泊まりの家族の看病を経て亡くなりました。母親からは生前、大きな会社に入りなさいとだけ言われたので、そのままアートネイチャーに入社。17年美容師とカツラの販売をして稼ぎました。現在は高2の娘の父親として、不動産買取り営業で頑張っています。父としての私の思いや行動は、もしかしたら親譲りで不器用かもしれません。ただ自分の人生を楽しんで、そして全うしたいと思えた、この2日間でしたし、自分と家族との時間を噛みしめて向き合った日になりました。親父、豊を可愛がってくれてありがとう。マウンテンバイクも躊躇わず買ってくれてありがとう。そしてお世話になりました。色々思い出をありがとうね。次は車の免許でも取って、また山登りやハゼ釣りに出かけよう。笑いながら尾瀬の山の花でも写真撮ってさ、山頂で最高のおにぎりをまた食べよう。
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